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逆説のオプティミスト、ルソー [美術]

というわけで、
前回の記事に引き続き、アンリ・ルソーである。

ルソー絵もそう評されることが多いが、
人柄も子供のままで純朴、純粋だったと言われる。
その常人離れするほどの程度により、
彼の生涯は物語のような、
謎と悲哀と夢に縁取られたものであった。

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ルソーはその絵も人生も、逆説に満ち満ちている。

彼は「レアリスムの画家」と自称し、
見るものを写実的に描いているつもりであったが、
それは一般的な写実主義とはほど遠いものであった。
伝統的なアカデミズム絵画に憧れ続けながら、
次世代を遥かに先取りする絵を描いた。
彼の絵は一見動きのない静止したものに見えるが、
見れば見るほど、他の絵には無い躍動感、生命力が伝わってくる。
画面からの沈黙も同様、画中の全てが音を奏でるようになる。

浮世離れして、自らの価値観でしか生きていなかったが、
同時に非常に権威主義で、名声や大金に憧れ続けた。
これ以上なく穏やかでお人好しだったが、
一方では嫉妬深く激情家であった。
批判も非難もまったく理解せず飄々としていたが、
ずっと根に持っていた。

生涯、悪意あるものから愛あるいたずらまで含めてだまされ続けたが、
死後本人の言及による経歴詐称が長らく人々をだまし続けた。

逆説のオンパレードである。

このような矛盾の中を、ルソーはドン・キホーテさながらに、
人々に馬鹿にされながらも絵画という槍を持って、
ただひたすら理想に向かっての戦いを生涯続けた。

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(↑画室のルソー。彼の槍と共に。)

ルソーは自分についての細かい嘘をつき続けた。
おまけに自分自身がその嘘を半ば本当に信じていた。
彼は自分の作った世界に理屈を超えて同化してしまう人だったようだ。
自分の嘘を信じ、自分が描いた熱帯植物の熱気に息苦しくなった。
これはもともとの性格もあるだろうが、
長らく不遇の日々を送っていたから、というのもあるだろう。

満たされない現実の代わりに別の世界を創造し、
時にそれに同化してしまう。
ある種の才能とは、宿命の強さから来ると思うが、
その点ルソーは、生きるために世界を創造せざるを得ない、
そのためにそれを描き続けなくてはいけない、という宿命があった。

彼の眼を通すと、日常のありふれた事物も、
彼自身の世界の重要な登場人物になる。
彼は大切なものは大きく描き、存在として大きなものを大きく描く。
遠近法を超えた、古来の尺度である。
中世のキリスト画ではキリストは大きく、
使徒は隣にいても小さくなる。
日本の浮世絵の花魁とその付き人も、同様。
そのような表現をルソーは本能的に理解し、
そのような世界観こそ彼の秩序だった世界にぴったりだったのだろう。

ルソーにとって人間は「いい人」「わるい人」でほぼ分けられたらしい。
この世界観といい、彼は童話的である。
グリム童話等民話で見られる、単純なようで、複雑なようで、
しかし独自の秩序のある世界。
無垢で美しく、しかし残酷で、
常に死がとりまきながら激しく生を求める世界。
善人と悪人、苦難と成功、悲劇と幸運、騙しと愛の世界。

童話の持つ普遍性に惹きつけられるように、
多くの人がルソーの絵に惹き付けられる。
その絵はまれに見るほど完結した、
完全に個人的な世界であるのに、
見ている内に共感してしまうのは、
このようなからくりがあるからなのだと思う。

私はルソーの絵を見、ルソーのことを知れば知るほど、
なんとも言えない哀愁と、優しさを感じる。

横たわる女、そっと匂いを嗅ぐライオン、
笛を吹く神秘の人物、獰猛な野獣、
威厳とユーモアの入り交じった人々、
どこまでもしげっていく植物、ひとつひとつ丹念に描かれた葉、
無数の色を持つ空、太陽、月、
月の光。

同僚のいたずらとも知らず、
現れた骨格標本に深々お辞儀をしてのどが乾いてないか聞く彼。
だまされてもだまされても懲りずに人のもたらす朗報に胸躍らせる彼。
嘲りに満ちた批評を丁寧にスクラップする彼。
絶望的な老いらくの恋に胸焦し、相手の家の外で寝る彼。
誰も来ない展覧会のために飾り付けをする彼。
稚拙さを笑われ回覧される自分の作品を悲しそうに眺める彼。
近所の子供や老人に芸術を教える「教授」であることを誇った彼。
毎晩亡き妻の肖像の前でフルートを吹く彼。
ピカソの開いた「ルソーをたたえる夜会」を、
当然だという、荘厳な顔をしながらも、無邪気に幸福に楽しんだ彼。

そんなひとつひとつのことを思うたびに、
ルソーの使った色さながらに、
ちくりとする暖かい感情が増幅してゆくようだ。

哀感あふれるようなエピソードが多い割に、
悲壮感があまりないのは、ひとえに彼の楽観主義によると思う。

彼は徹底した楽観主義者であった。
絵も、名声も、恋も、最後まで決してあきらめなかった。
時に現実の刃の傷を受けても、
それをかわすために世界を作り、
描き続けた。
そんな絵画のドン・キホーテを、
私はその絵と同じくらい愛するのである。

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(↑代表作のひとつ、<眠れるジプシー女>。
布地の色のひとつひとつにここまで月光を浸透させ、表現した人はいない!)



アンリ・ルソー (タッシェン・ニューベーシックアートシリーズ)


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アンリ・ルソーの見た風景 [美術]

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先日、箱根ポーラ美術館で開催中の、
<アンリ・ルソー〜パリの空の下で>という展覧会を見た。
ルソーは大好きな画家なので、とても楽しかった。


ルソー作品自体は全体からいって多いとは言えないのだが、
類似がある画家たち、影響を受けた画家たちなど、
展覧会の構成は中々だった。

ルソーはパリ市の税関で勤務しながら絵を志し、
中途退職して画家として生き、
そのどの時代にも流派にも属さないオリジナリティで、
20世紀絵画に大きな影響を与えた画家である。

私はルソーの色、筆致、テーマ、そして全体の雰囲気全てが好きだ。

この展覧会のメインであるこの絵↑、
《エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望》にもその全ての魅力が備わっている。

彼は夕焼けの眼を持った画家だと思う。
彼の描く空は、例え青一色の晴天を描いていても、
夜を描いていても、どこかに夕焼けの無数の色彩が隠れている。
そして額に別の眼、月の眼を持っていた。
彼ほど月を月として描き、
月の光のあたりかた、その多彩さを表現した画家はいないと思う。

この絵は「夕焼けの眼」で主に描かれているが、
この空の色、実際本当に吸い込まれるような美しさだった。
このような色の空が現実にそっくりに現れるかどうかではなく、
夕焼けそのもの、夕焼けのもたらす感情の色そのものだ。

ルソーの特徴である丹念に細部まで描きこまれた木々と葉は、
それぞれの色彩をまといながら夕焼けを反射して柔らかくきらめく。

画面下の後ろ向きの人物、
このような構図で似たような後ろ向きの人物が良く出てくるが、
これはルソー本人であろう。
私たちはこの人物を通して、ルソーの見た風景を見ることが出来る。

ルソーといえば「デッサン力、遠近法の欠如」がよく言われるが、
このエッフェル塔も、おかしいといえばおかしい。
歪んでいるし、下部は切れている。
しかしそれは画面の男にとっての現実の風景であり、
彼を通して見るルソーの現実を、私たちも見ているのだ。

そこでは鉄筋は柔らかく飴のような鈍い光沢を持ち、
空と樹々が反射し合い、
傾いた橋を右側の大木が支えるようにして構図の安定をもたらす。

自らを「レアリスムの画家」と称し、
見たものをそのままに描いていると自負していたルソー。
「実際の現実」とのあまりの違いのせいで人々はそんな彼を嘲笑したが、
彼は「自分の現実」を描いていたわけだから、ある意味正しいのである。
技術のみで判断するしかできない浅薄な人間には、
到底見ることの出来ない美しい世界をこのように私たちに見せてくれている。

独自の眼で独自の現実を観察し、
それを惜しみなく人々に再現してくれたルソーの優しさに、
感謝でいっぱいである。

この他にも魅力的なルソーの絵や、
様々な関連性から導かれた多種多様な画家の絵が沢山展示されていた。

変化球として、
創成期の映画人、ジョルジュ・メリエスの映画も流れていた。
確かに空への関心といい、エキゾチズムへの関心といい、
今まで意識しなかったが、面白い類似があるものである。

他にも、終生音楽も愛していたルソーの、
亡き妻に捧げたバイオリンの曲を再現したものが聞ける。
魅力的だが唐突な展開の多い、不思議な曲だった。
更にその音声コーナーでは、
ルソーの友人であり理解者であった詩人アポリネールの詩を、
本人が読んでいる貴重な録音も聞くことが出来る。
非常に芝居がかった、ゆったりとした朗読だ。

そんな感じで、盛りだくさんの展覧会、
満喫、満喫。
更にショップでルソーの素晴らしい伝記も購入し、
このところルソー三昧である。
そんなわけで彼について考えるところ多々であるので、
次回また書いてみようかと思う。


アンリ・ルソー 楽園の謎 (平凡社ライブラリー)


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